君の名は

[mixi 2006-09-10]

冥王星が話題になっていたが,惑星の数がいくつか,というのは天文学の問題なのかどうか.冥王星が迷惑星になっても,なんなら明大前でも,大方の天文学者は気にしないかもしれない.もっとも,惑星かどうかは,正確には名前ではなくカテゴリーの問題だし,この機会に天文学の中身を宣伝するのもよいだろう.

名前は本質でない,という主張で,もっとも印象に残っているのは,リチャード・ファインマンの自伝にある話である.ファインマンは父親に連れられて森に行き,いろいろなことを学ぶ.父親は,たとえば,鳥の習性など,さまざまなことを観察することを教えるが,それらの名前については注意を払わない.ところが,彼の級友たちにとっては,あることを「知っている」というのは名前を知っているということであって,習性や特徴が理解できても,名前を知らない鳥は知らない鳥であり,逆に何も知らなくても,種の名前がいえれば既知の鳥なのである.ファインマンの「物理学者」としての出発を運命づけるような話である.

ところが,まったく逆の話もある.「雑草にも名前がある」というのがそれである.最初に聞いた話は,たしか牧野富太郎が「雑草にも名前がある」ということに気づいてから世界の見方が変わって学問の道に進んだ,というのだった.別に,昭和天皇が「雑草という草はない,どの草にも名前がある」というようなことを諭した,という話もある.これは,牧野博士の逸話を昭和天皇が知っていてそういわれた,とも,あるいは都市伝説のように,同じ話がさまざまな人に帰せられているとも考えられる.ちなみに「雑草にも名前がある」というタイトルの本もある(草野双人著,文春新書,2004).

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名前は大事じゃない,ということから出発する学問も,名前があることに気づくことで出発する学問もあるらしい.興味深いのは,私達がどちらの話にも共感をおぼえることである.まるで2つの心を持っているかのようだ.

最初のファインマンのエピソードは,ラッセルが述べた「固有名は属性の束と等価である」という考えに対応しているように思われる(固有名でなく種の名だが).物理学や数学ではこれが「公式見解」かもしれない.

一方,名前が大事だという説のほうは,鳥や雑草の名前を知ることで,認知的なカテゴリーの枠が作られ,そこに経験が蓄積される,として説明されるだろう.ここでの言葉は「依り代」であって,そこに経験やシステムがとり付き,蓄積されていく.たとえば,世界の数え切れない地名には,それぞれ目に見えない無数のものが取り憑いていることになる.ある日突然「銅」を「鉄」と呼び,「鉄」を「銅」と呼ぶことにすれば,物理学はまったく変わらないが,世界は大混乱である.

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さて,それでは物理学者は名前には無関心かというと,実際はそうでもない.E=mc^2とかS=log Wとかいう式が象徴的に書かれているのを見かけるが,建前からいうと,記号の説明なしでこれらを書くのは無意味なはずである(光速度cは物理定数なので明示的規約があると思うが).逆に「エントロピーをP, 場合の数をFとしてP=log F」とか書いてもよいはずであるが,まずそういうことはない.

論文を書くときに実際におこなわれるのは,なるべく「違和感のない記号」「先例のある文字」を選んで,しかるのちにきちんと定義をして使うという方法で,いわば両方の世界に顔を立てているわけである.数学でも,たぶんそうなのだと思う.そうでないと論文などは読みにくくて仕方がない.

試験の答案などでしばしば起こる椿事がある.学生,特に受験生などは,「本音」と「建前」の違いがわからないので,「定義さえすればどの文字を使ってもよい」ということを真に受けてしまうのである.いわばファインマン流を実践するわけである.その結果の答案は「物体の質量をa,おもりの質量を b,加速度をc,未知の力をx,重力加速度をSとすると,ac=Sb-x」というようなものになるが,これではほとんど暗号解読である.もし読めないからといって減点すれば,物理学は言語的な表記から独立だという建前を傷つけるわけで,減点することはできない.先生は物理学の大義のために四苦八苦することになる.

物理学者もまた2つの心を持っているのである.