物理学と神秘 (その1)

[mixi 2009-03-01]

物理学の基礎理論に人間や人生の神秘を求めるような話がある。1970年代に流行ったのかと思っていたが、今でもあるらしい。 たとえば、

量子力学によれば世界はみな波動です。私達の精神が見えない波動によって繋がっているのは現代物理学によっても示唆されています」

「世界は26次元の高次元空間ですから、人生には常識では図りしれないものがあるのです」
というような言説である。少しでも物理を勉強した者にとっては、たとえ相手が素人でも、こうした話ほどいらだたしいものはない。

逆に、物理学や関連分野を大学で学んだ人が、このような話をするのに出合った経験はないが、もしそういうことがあるなら、 (1)完全な落ちこぼれ (2)冗談 (3)ナンパ、のいずれかではないだろうか。

もし、本人が内心ウソだとわかっていて話しているとすれば、それはひどく軽薄な心情なのか、哀しい心情なのか、どちらだろう。両方なのか。

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科学というものが、「死にたくない」「死んだらどうなるの」「死んだ人を帰してくれ」という訴えには無効である以上、別のことに期待するのはおかしいことではない。

ただ、科学というものは、そのはじまりからして、

「あなたが一番知りたいことから順に教えることはしませんよ」
「あなたが生きているうちに知ることができることはごく一部です」

という約束と引き換えに、面白いことや役に立つことを教えてくれる、という「契約」なのではないかと思う。おそらく、それ以上を求めることは、単純に契約違反なのである。鶴女房の居間を覗くのと同じだ。

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一般論としてはそういうことなのだが、もちろん、具体的には、個々のことについて間違ったことを言っているから、怒るわけである。

ただ、個々の知識が間違っている、というだけでは少し説明が不十分な気がする。量子力学はともかく、26次元の弦理論などは、物理学者でもきちんとわかっている人は僅かであって、私を含めて大半の人はお話を聞いて漠然とした理解をしているだけである。それなのに、なぜ間違いだと断言できるのか。

その理由は多分2つあって、ひとつは物理そのものの問題で、もうひとつは心情的というか精神論である。

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まず、物理学そのものの構造としては、量子力学まではわれわれの人生や生物の働きに関係があるが、それ以降の発展、特に弦理論などはそういう世界から大きく離れてしまった、ということがある。

現代の基礎理論が対象にしている効果のほとんどは、人間の想像を絶するような高エネルギーで、あるいは、時間や空間の小さい領域でのみ効いてくるようなものである。たとえば、原子炉や水爆のようなものを「身近な世界」に含めても、それらとは全然関係がないといってよい。

また、重力相互作用に関することも、生物の働きのもとになっている化学反応がすべて電磁気の働きによっているため、地球の重力とか潮の干満のような規模の大きい現象以外には関係がない(詳細は後述)。

大学で教える物理学を理解すれば、そういうことがわかるので、弦理論が何といっても、それはわれわれが生きていくことには直接関係がないだろう、というふうに判断できるわけである。

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もうひとつは、物理学のようなハードサイエンスにおいて、「わかる」というのがどういう感覚のものかを知っている、ということだと思う。

「直観と言葉を介した思考と数式と現実」のぜんぶが、(ファインマン風にいうと)「パチンと嵌まり合う」という感覚がある。それが、わかった、ということである。

その感覚がわかってしまうと、物理学のような学問が、すごい力を持っているのと同様に、そこに何を期待してはいけないか、ということも同時にわかってしまう。そこには、冒頭の例のようなふわふわした心情をそのまま受け止めてくれるような余地はない。

そうした感覚を体験するには、別に高級な理論を学ぶ必要はなくて、大学初級、高校の物理や中学の理科でも十分だと思う。

自分の体験でいうと、仕事の保存則から動滑車と定滑車、梃子などの働きをぜんぶ説明してみせるとか、円運動をする物体に働く力を理解するとか、浮力について質量保存則との関係やパスカルの原理の使い方がわかるとか。

逆にいうと、高級そうな物理の用語や題目を並べられても、基本的な感覚がわかっていない、共通の基盤がないということに、いらだちを覚えるわけである。

何かを本当に学ぶということは、知識を増やすだけではなく、私達の心のありようを変えてしまい、二度ともとのような思考をすることはできなくなるのだと思う。