ラブコメに似てるあれ


これからの科学技術研究において情報科学・計算機科学やソフトウェアの面
が重要であることは認識されつつあると思うが,「ソフト」と「ハード」の2分法
で考えるのではなく,それらを支え,個別科学と結びつけるような
「方法論の科学」「モデリングの科学」にも注目してほしい.



具体的には,統計科学,機械学習,計算科学,非線形科学,広い意味での
数理科学などの分野横断的な領域である.これらは,実世界のデータを
モデルを通じて個別科学と結びつけるものであり,今後のわが国の科学
技術振興において鍵となる分野であると考える.



たとえば,次世代スパコンについても,まずハードウェアありきという発想
ではなく,まず「計算機を使った科学」「実世界データを数理モデルに結び
つける方法の研究」を分野横断的に行う「計算科学研究所」があって,
世界最速レベルのハードウェアを「依り代」として世界の若手研究者が
そこに集う,という姿が本来望ましいように思う.



数理科学の振興策についても,いわゆる応用数学のレベルにとどまらず,
より広い視野から「方法論の科学」「モデリングの科学」の育成という視点
が必要だと考える.



こうした関連領域をばらばらに考えるのではなく,一体的に理解することで,
わが国の科学技術政策の弱点を補強し,あらたな展開が期待できるの
ではないだろうか.

物理学と神秘 (その2)

[mixi 2009-03-02]

必要なことは(その1)で大体書いたが、「26次元の何とか」についてもう少し付け加える。この分野についての私の知識はかなり怪しいので、あまり期待しないように。

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まず、「26次元(あるいは24次元、10次元)の神秘」という場合に、次の2種類を区別する必要がある。このふたつは全く違ったことである。

(1) 3次元の空間(4次元の時空間)を超えた世界があるのが神秘的だ。

(2) 「25でも23でもなく26が特別」なことが神秘的だ。


*****

(1)のほうには「同情の余地」があまりない。

以前にも書いたことがあるが、「4次元の謎」の類は、19世紀に数学的な高次元空間(いまや誰でも計算に使っているもの)が定義されたときから、ずっといわれ続けている。いわば、贋科学の定番ものである。

確かに弦理論では26次元とか10次元というのが出てくる。しかし、通常の解釈では、4次元との差の部分の次元は素粒子サイズに円や球のように閉じていて、日常はもちろん、われわれに可能な物理実験では、その部分が「空間」として見えてくることはないとされている。したがって、それは日常の生活にも人生にも直接には関係ないのである。

もっとも、ごく最近になって、1次元か2次元分の「軸」が、たとえば数cmとか数mというようなスケールで残っているのではないか、という説が出た。CERNの新加速器で微小ブラックホールが生成可能かもしれない、という話もこうした「過剰次元」の存在が前提になっている。

もしそんな説が本当なら「4次元の神秘」が実在することになりそうにである。しかし、実は、余計な次元にアクセスできるのは4つの種類の力のうちで重力相互作用だけだ、という点がポイントなのである。

われわれが、たとえば、手で物を動かしたり、食べ物を分解して代謝したりするのは、大部分が電磁相互作用がもとになっている。したがって、過剰次元の効果が明らかになるような事象を日常のレベルで見つけるのはおそらく簡単ではないだろう。逆にいえば、日常生活や人生に関係するくらいなら、とっくに他のもっと精密な実験で異常が検出されるはずだということである。

ペンローズの脳理論」のような、それ自体が贋科学ぎりぎりの説と組み合わせでもしないと、過剰次元からは神秘は出てこないように思われる。

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(2)についていえば、ある意味で、これは本当の神秘である。

26,24,10と並べたが、これは別々ではなくて、26次元のうち有効な次元が24次元、またフェルミオンを考えると10次元になる、とかいうような話だったと思う (その辺はご勘弁を・・)。

基本は24と思われるので以下は24で話をするが、23でも25でもだめで、24じゃないといけない、というのはまことに不思議なことである。

その不思議さを理解するには、物理学の歴史を考えてみるとよい。

古代においては、プラトンの正多面体やピタゴラスの多角数など、宇宙の基礎に神秘の数字があるという思考が普通であった。正多面体が、4,6,8,12,20の5通りしかないことは、今日にいたるまで人々の興味を惹いている。

近代のはじめになっても、ヨハネス・ケプラーは、ケプラーの3法則を通じてニュートン力学の礎を作りながら、一方では今日では省みられることのない正多面体モデルの宇宙論を展開している。

ところが、近代物理学のはじまりであるニュートンの力学になると、その枠組みからは、「魔法の数」のようなものはすっかり取り除かれてしまった。ケプラーの法則の力学的説明のもたらした「天の理と地の理はひとつ」という世界観が、「美しい魔法の数の支配する天と混沌とした地」という中世的な世界観にとって代わったのである。

そこから、歴史はゆっくりと逆転をはじめる。まず、量子力学になると、主として波の性質から、離散的な量子数とか、原子核での「魔法数」のように、「特別な整数」があらわれてくる。しかし、この段階では、理論の枠組み自体には特別な数字はなく、それらはあくまで個々の系やモデルに依存して出てくるのであった。

次に現れたのがゲージ原理であって、ここではじめて「素粒子の間の力」と対称性による「素粒子の分類」が一体不可分のものとなった。さらに、くりこみ可能性の要求は、「力」が何でもよいのではなく、高度の対称性を(潜在的に)もつときにだけ、理論の枠組みが整合的であることを示した。

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その先にあるのが「23次元でも25次元でもだめで、24次元でなくてはならぬ」という世界である。われわれは古代の魔術的世界を呼び出してしまったのだ!

「天の理と地の理の合一」はどうなったのか。中世の「天」と「地」にとってかわったものは、現象を支配するエネルギーの大きさであり、(量子力学と相対論によれは実は同じことなのであるが)距離と時間のスケールである。

人間の計り知れないような短い距離・極微の時間・巨大なエネルギーの領域では、原初の対称性が蘇り「天の理」が支配する。われわれ生き物のスケールでは、それらはまったく見えなくなる(#)。

古代人とわれわれの最大の違いは、われわれは、われわれの発見したことが、日常や人生に関係がないことを知っていることだろう。

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「24次元の神秘」はそれ自体は数学的事実なので、弦理論とのかかわりはその一部であって、数学の内部や他の数理科学へも広大な広がりを持っているらしい。

たとえば、このあたりのページ
http://www.geocities.jp/ikuro_kotaro/koramu/236_kyu2.htm
になにやら出ている(これは勉強用のメモみたいな感じだが)。

私には、弦理論と同様に、あるいはそれ以上にわからない世界であるが、この世界のひとつの中心はデデキントのエータ関数と呼ばれる謎の式らしい。そこには1/24という数字が出てくるが、これは1/22でも1/23でもいけないのだ。 
http://mathworld.wolfram.com/DedekindEtaFunction.html

また、一番有名なのは24次元空間(あるいは24ビットの2進列の空間)に球を充填するとき、23次元でも25次元でもできないような「完全無欠」の詰め方ができるという事実のようである。

いつかこのあたりを理解したいと思っているのだが、数学者でない人間にとってはなかなかしんどい。

しかし、これらにしても、現在までひとつの例外を除いては、われわれの役には立っていない。そのひとつというのは、24次元の充填と関連した誤り訂正符号でGoley codeと呼ばれるものである(同じ名前のlow autocorrelation codeとは別物)。これは他の方法と組み合わせてVoyager探査機からの送信に使われて有名になった。

Goley codeは3ビットまでの誤りの訂正については理想的な性質を持っている。しかし、4ビットや5ビットの訂正について同様の性質を保ったまま一般化することはできない。美しさと神秘は、それ自体が現実の世の中での限界でもあるわけである(##)。

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(2)は確かに神秘ではある。しかし、言ってみれば、

「われわれは神を作り出した。 

 しかし神はわれわれに気付きもしなかった」

ということになるのではないかと思う。(###)

グレッグ・イーガンばりに言えば、われわれが見出した世界の不思議さは、世界がわれわれのことを気遣ってくれる筈だ、というような感傷を許さないようなもののように思えるのだ。

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南部陽一郎がはじめて素粒子の世界に導入した「自発的な対称性の破れ」という概念は、そこに関係しており、それが(他の業績とともに)ノーベル賞の対象になったのである。 ちなみに、噂だと、南部先生は時に神秘主義的で、超能力と第6の力の関係うんたら、というようなことを漏らされることがあると聞いた。本稿(特にその1)の趣旨とは矛盾するが、たまたま思い出したので、公平のために記しておく。

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むしろ、真の符号理論の革命は、もっと単純で乱暴な手法であるターボ符号やLDPC符号によってもたらされた。それらの発想もある意味では美しいが、その美しさはまったく別種のものである。

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Goley codeは、とりあえず神様に隣町のスーパーまでお使いに行って貰うことができた、といったところか。

物理学と神秘 (その1)

[mixi 2009-03-01]

物理学の基礎理論に人間や人生の神秘を求めるような話がある。1970年代に流行ったのかと思っていたが、今でもあるらしい。 たとえば、

量子力学によれば世界はみな波動です。私達の精神が見えない波動によって繋がっているのは現代物理学によっても示唆されています」

「世界は26次元の高次元空間ですから、人生には常識では図りしれないものがあるのです」
というような言説である。少しでも物理を勉強した者にとっては、たとえ相手が素人でも、こうした話ほどいらだたしいものはない。

逆に、物理学や関連分野を大学で学んだ人が、このような話をするのに出合った経験はないが、もしそういうことがあるなら、 (1)完全な落ちこぼれ (2)冗談 (3)ナンパ、のいずれかではないだろうか。

もし、本人が内心ウソだとわかっていて話しているとすれば、それはひどく軽薄な心情なのか、哀しい心情なのか、どちらだろう。両方なのか。

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科学というものが、「死にたくない」「死んだらどうなるの」「死んだ人を帰してくれ」という訴えには無効である以上、別のことに期待するのはおかしいことではない。

ただ、科学というものは、そのはじまりからして、

「あなたが一番知りたいことから順に教えることはしませんよ」
「あなたが生きているうちに知ることができることはごく一部です」

という約束と引き換えに、面白いことや役に立つことを教えてくれる、という「契約」なのではないかと思う。おそらく、それ以上を求めることは、単純に契約違反なのである。鶴女房の居間を覗くのと同じだ。

***

一般論としてはそういうことなのだが、もちろん、具体的には、個々のことについて間違ったことを言っているから、怒るわけである。

ただ、個々の知識が間違っている、というだけでは少し説明が不十分な気がする。量子力学はともかく、26次元の弦理論などは、物理学者でもきちんとわかっている人は僅かであって、私を含めて大半の人はお話を聞いて漠然とした理解をしているだけである。それなのに、なぜ間違いだと断言できるのか。

その理由は多分2つあって、ひとつは物理そのものの問題で、もうひとつは心情的というか精神論である。

***

まず、物理学そのものの構造としては、量子力学まではわれわれの人生や生物の働きに関係があるが、それ以降の発展、特に弦理論などはそういう世界から大きく離れてしまった、ということがある。

現代の基礎理論が対象にしている効果のほとんどは、人間の想像を絶するような高エネルギーで、あるいは、時間や空間の小さい領域でのみ効いてくるようなものである。たとえば、原子炉や水爆のようなものを「身近な世界」に含めても、それらとは全然関係がないといってよい。

また、重力相互作用に関することも、生物の働きのもとになっている化学反応がすべて電磁気の働きによっているため、地球の重力とか潮の干満のような規模の大きい現象以外には関係がない(詳細は後述)。

大学で教える物理学を理解すれば、そういうことがわかるので、弦理論が何といっても、それはわれわれが生きていくことには直接関係がないだろう、というふうに判断できるわけである。

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もうひとつは、物理学のようなハードサイエンスにおいて、「わかる」というのがどういう感覚のものかを知っている、ということだと思う。

「直観と言葉を介した思考と数式と現実」のぜんぶが、(ファインマン風にいうと)「パチンと嵌まり合う」という感覚がある。それが、わかった、ということである。

その感覚がわかってしまうと、物理学のような学問が、すごい力を持っているのと同様に、そこに何を期待してはいけないか、ということも同時にわかってしまう。そこには、冒頭の例のようなふわふわした心情をそのまま受け止めてくれるような余地はない。

そうした感覚を体験するには、別に高級な理論を学ぶ必要はなくて、大学初級、高校の物理や中学の理科でも十分だと思う。

自分の体験でいうと、仕事の保存則から動滑車と定滑車、梃子などの働きをぜんぶ説明してみせるとか、円運動をする物体に働く力を理解するとか、浮力について質量保存則との関係やパスカルの原理の使い方がわかるとか。

逆にいうと、高級そうな物理の用語や題目を並べられても、基本的な感覚がわかっていない、共通の基盤がないということに、いらだちを覚えるわけである。

何かを本当に学ぶということは、知識を増やすだけではなく、私達の心のありようを変えてしまい、二度ともとのような思考をすることはできなくなるのだと思う。

考えるレベル

[mixi 2006-10-13 最終段落を削除]

「情報統計力学を×××に応用する」という案に,そんなのにだまされてはいけない,とコメントしたら,どういう意味でいけないのか,と聞かれた.どの部分がよくないというより,そういうレベルで考えるのが間違いなのではないかと思うのである.

情報統計力学も×××も基本的には政治的な主張で,はっきりひとつにまとまった実体があるわけではない.そういうものは,バイオインフォマティクスとか経済物理とか,ほかにもたくさんあるが,そういういわば虚構の概念の順列組み合わせで思考しても,意味のある結果には到達しがたいのではないだろうか.

大人の世界では政治的主張も必要なので,それらの概念そのものが一概に悪とはいえないと思うし,会議や雑誌に投稿したり就職口を探す場合にはまさにそうしたレベルで思考する必要があるが,研究の内容に関しては,もっと上位のレベルで考えるか,さもなければもっと具体的なレベルで考えて,途中の余計なものは飛ばしてしまったほうがよいと思う.

「上位」というのは階層としては抽象化でも内容はより具体的でありうる.たとえば「ベイズ」とかいう概念で考える代わりに,「一個の最適なものでなく広がった集まりを考えることが意味を持つ場合にはどういうものがあるか」とか「一個の集計量を求めるのではなく,個体差や非一様性を扱えるような統計学の方法論を考えたい」とか「モデル作りの際に生成過程から考えることの有利さと不利さ」とか考えたほうが有益だろう.これらはすべて違ったことであり,それぞれ別の広がりを持っているが,漠然と「ベイズ」ということばで考えれば,それらの含蓄はすべて消えてしまう.

最終的には,研究というのは「このモデルでこの対象を表現してみたい」とか「このモデルをこの方法で扱いたい」「数値実験でこの量を測定したら何が見えるか」というような具体的な作業にまで落とし込まないと実行できないので,いつまでもメタなこと,概念的なことだけをいっていて,手がおそいのではだめである.その意味では部分も全体も両方大事なのであるが,「中間層」は自然に自分で考えだすべきではないだろうか.既成の中間的概念に頼り,そのレベルで思考することは,他人のことばに魂を売るということではないか.

フィクションと科学技術

[mixi 2006-10-12]

日本とアメリカが戦うに至った原因は「仮想戦記」の読みすぎだ,という話がある.太平洋戦争の前後に指導的立場にあった人が子供だったころ,日本とアメリカが戦う物語が双方で流行し,これを読んで育った子供たちの心の奥深くにそのイメージを植えつけた.そこで,いざというときに戦う方向への選択を無意識にしてしまったというわけだ.

まあ,これはネタであるが,科学や技術において,子供のころみたフィクションの影響というのは無視できないと思う.たとえば,鉄腕アトムで育った人は人工知能ロボットが,ガンダムマジンガーZだと2足歩行ロボットが作りたくなるのではないか.

この理屈でいくと,漫画やアニメから,これから流行するものが予想できることになる.ロボット系でいえば,次は「攻殻機動隊」や「エヴァンゲリオン」である.それらを読んで育った人間は必ずそれを作ろうとするだろう.むろん,実際に可能かどうかは別で,技術的に無理な場合には,何かそれに関連したもの,思想や精神がそれに類似したものに変換される.

攻殻機動隊」から連想されるものは,もちろんBMI(Brain Machine Interface, BCI Brain ComputerInterfaceともいう)である.昨年来日した研究者によれば,いまの技術でも脳波でテトリスができるという.脳の理解が行き詰まれば,理解できなくても統計的なモデル化を用いた学習の技術でBMIが実現できるのでは,と考える人が出てくるのは不思議ではない.

私と共同研究者のhsue氏は,2つのカオスの間の非線形の「シンクロ率」をカーネルCCAで計測することを提案した(J.Phys A 39 p.10723 (2006),nlin.CD/0507006).アスカのシンクロ率の数字が低かったのは,彼女の同期の仕方が高度で線形の手法では計測できなかったからかもしれない.われわれの手法を用いていれば,彼女ももっと自信を持って実力を発揮できたのではと思う.

有名な人のやった「硬貨を投げる実験」の結果

[mixi 2006-09-15]

ビュフォン 4040 回 0.507

ド・モルガン 4092 回 0.5005

ジェボンズ 20480回 0.5068

ロマノフスキー 80640回 0.4923

K.ピアソン 24000回 0.5005

フェラー 10000回 0.4979

「コルモゴルフの確率論入門」(森北)より.


これは確率の研究か,硬貨の研究か.

とりあえず.有名な数学者は暇だ,ということがわかる.

遠隔存在

[mixi 2006-10-13]

長いこと病床にある人とか,身体の具合で遠くに行けない人の代わりに,その人が制御するカメラや何かがお散歩して,外を歩く気分が味わえる,というような試みはどの程度行われているのだろう.

体が動かせなくなっても,人工呼吸器を着ければ,長期生存可能な病気もある.こういう人に対して,代わりの体が散歩したり,時には空を飛べたりすれば,寝付いてからの寿命が飛躍的に延びたりはしないだろうか.直接には感染など,さまざまな理由でなくなるのだと思うが,楽しみというのは決して2次的な要因ではないという気がする.

実際にこの種のことを試みるとして,大切なのは,できるだけローテクではじめて,本当に必要な技術や設備だけを導入していくことだと思う.たとえば,携帯とビデオカメラを持った人間が,指示にしたがって外を散歩する,というのなら技術は何もいらない.小さなボディにカメラを積んで,患者さんかそばの看護婦さんが病室で操縦し,ボランティアの人がボディについていってあげる,というのでもよい.

工学部にありがちな,まずファンドを申請して設備を購入するとか,自分たちの最新技術を使うことが優先するというようなやり方ではきっとうまくいかないだろう.複雑系ふうの変な理論とかも必要ない.必要なのは9割の看護技術と1割の工学,それも「機械に強い」程度のものだと思う.

残念ながら,こちらは看護にも機械にも弱いのであまり役立ちそうにないが,機会があれば何かやってみたい.患者さんが本当に望むか,望んでも疲れてしまわないか,電波機器を病院で使うためにどうするか,などよくわからないのだが.